※個人の意見です
Sygdommen til Døden -Anti-Climacus
すでに死を覚悟したものにとって、もはや救いはない。
そうした人間に対して生を強要することは精神の殺人と同義ではないのか。
そういった絶望を救えるものは死でしかない。
人の運命において死は確実なものであるので、それをいつ行使するかはその人自身に委ねられているはずである。
死ぬほど辛い事柄に出会った時、本当に死を選ぶかは別として、死を選択できる状況になければ切り抜けられないこともあるかもしれない。もちろん生にしがみつく意志があってこそ、切り抜けられるという見方もあるかもしれない。
故に死は常に選択肢にあるべきだと考えているし、思考すら忌避すべきという考えはあまりに稚拙とすら思っている。
他害するくらいなら自死せよ
昨今、自死に他人を巻き込む嫌いがある。
その時に湧き上がることといえば、自己責任論と一人で死ねという論調である。それに批判的な考えを投稿したものが炎上したのも記憶に新しい。
自分は「死ぬなら一人で死ね論」に肯定的な人間であるが、多くの人間が上記のように、「(他害するくらいなら)自死せよ」と考えているなら私とは意見が異なる。
自死に他人を巻き込むな
自分の意見はこれであるが、似ているが非なる論であることは、まともな思考があればすぐに理解できるはずだ。
「死ぬなら」というのが自死にあたり、「一人で死ね」が他人を巻き込むな、そう理解していたが、先のツイートはもしかしたら他人は大きく違う認識をしていたのだなと思ったツイートであった。
絶望した者にこそ救いのある社会
自己の責によらない事由によって、どん詰まりの状況に陥ることはこの世においてままあることである。そうなった際に、自分の責任でそうなったと叫ぶ輩は多いが、それもまた無責任だと思う。というか、全くもって想像力が足りない。
確かに、紛争地にホイホイと旅行に行くようは阿呆に対してはそう思うかもしれないが、ジャーナリストであったり、報道関係者であった場合はまた別であろう。昨今では報道に対する信用が失われつつあるため、そう言った関係者に対しても同じようにいわれることもあるが、それもまた、自己の責任ではなかろうと考えられる。
そうした、もはや自分ではどうしようもなくなった時に、社会のセーフティネットというものや、絶望から悪魔を生まないための仕組みというものが必要になるのではないだろうか。この日本においては、絶望したもはや救いのなくなったものに対して、積極的に排除をして行こうという嫌いがあるが、むしろそういった人間を孤立させないように常に人の流動する場所へ引きづり出さなければならない。
絶望したものにこそ救いが必要で、救いこそが絶望に対する唯一の薬ではないだろうか。
何も上手いことも言いたいこともない。個人の感想である。
追記:20190606
>(19人も殺さず)一人で氏ね
つまりこういうことだが、誰もお前に死ねとは言ってない。他人が話してることを又聞きした上で勝手に自身のことだと思うような、そんな幼稚な精神を早く成熟させるべきだ。