新生活を応援する自分語り「桜咲く、新たな幕がひらかれる。きみの前途はきっと明るい。」

日記

桜咲く、新たな幕がひらかれる。きみの前途はきっと明るい。

鯖缶ちゃん(2026.03)

おじいちゃんの昔ばなしって永遠に同じことをこすっていくので、適当に聞き流していたけど、おじいちゃんになるとどうもそういうのは同じ轍を踏んでほしくない、必死の心の叫びだったんだなって思うようになりました(まだ自認は5歳ですが)
不思議なことで、これまでどうにもならないから頑張ったこと、どうにもできないのを諦めてごまかしたこと、みんなにもたくさんあると思うんだけど、それぞれに相応の結果が今になってついてきています。
なので、ぼくも5歳なりの自分語りを通して、新天地へと歩を進めるきみへの応援をしようと思うんだ。だからおじいちゃん、ちょっとだけお話しするね。

いそがしかったらこれだけ読んでね🙏

  • 「どうにもならない」は「どうとでもして良い」わけではないよ
  • “人の振り見て我が振り直せ”、だから「人から見たきみの振りという視点」はとても重要だよ
  • きみはアニメの主人公じゃない。でもきみの人生では唯一の主人公だ!

ままならぬことは完全に解決できるまで対処しよう

どうにかしたいは違和感の端緒

生きていると大概の人はいくつも問題を抱えて生きていくことになるでしょう。何の問題も支障も起こらず進んでいっているなら相当に恵まれているか、きみは既に人間ではない可能性がありますね。ぶつけた足の小指のあざが消えないくらいの小さなどうにかしたい問題から、お給金が低すぎて生きていくのが難しい、果ては親に奨学金を使い込まれて借金だけ抱えているなどという、特大にままならないことを抱えている方もいるでしょう。その時に感じる「どうにかしたい!」という感情は、問題を解決するための手掛かりであり、モチベーションであり、きみにさえ気づかれなかったら死ぬこともなかった部屋のゴキブリを殺す時のような存在でもあります。

 重要なきっかけのくせにふっと目の前を通り過ぎてしまい、それっきりもう現れません。

でも、この時に「どうしたら解決できるか分からない」という行き詰まり感を持っていることも多いですよね。お金が先か問題解決が先か、みたいなことも往々にしてあることです。そんな時、ぼくはいくつかの方針を立てて乗り切ってい(るようにごまかしてい)ました。例えば、知識が無くて解決すべきことのきっかけがつかめないときには、似たような経験事例を援用してそれっぽい答えに丸め込んだり、分からないという状態にあることを周囲にばら撒き続けて、糸口を持っている人を釣り上げるという漁みたいなこともしました。

そんな真っ向から愚直に向かった時、なんとなくそれらしい答えをでっち上げた時、そして全く何もできなかった時、結果はどうだったと思いますか。まあケースバイケースではありますが、顛末として一番よかったのは、やはり知らないなりに努力して真っ向から答えを探しに突き進んだ時です。自分の力で模索したことは、あまり忘れないものです。そして情報を面で持っているため、応用が利きます。

で肝心の一番結果が悪かった、または年齢を重ねたときに悪影響が出ていると感じるのは、全く何もできなかった時より、それらしくごまかした時です。 特に対人経験において、ぼくはこれを強く感じています。自分の不足している点が明らかになっているにもかかわらず小手先のつじつま合わせに終始した結果、人と関わり合い、そしてそれを適切な関係として維持し続けるための能力が年相応なレベルに到達しておらず、何もできないがゆえに「わかりません」と謝罪してその場を乗り切った時より状況は数段悪化しました。

対人関係に限らず、問題はどこにでも転がっていますし、それをどうにかしたいと感じるきっかけも、どうにかできるようにする策もたくさん世には転がっています。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、と言いますが、どうにかしたいと思った時はそれを解決しなければならない最適な時期であって、ごまかさずに対処すべきです。

「たぶん大丈夫」は「絶対にだいじょばない」

問題の状況やレベルによっては「このくらいは一旦棚上げして進めても大丈夫」とか「前後行程を調整する」みたいなちょっとした作業で支障なく進むこともあります。工程をよく知っていてそれを判断するのは問題ない、と言いたいところですがここでの大丈夫は「多分」というきみの心象にすぎません。この多分大丈夫という感触はぼくの場合ほとんどあてにならず、絶対といっていいほど大丈夫ではないことに進化していきます。

ハンコの押しが甘い(くらいの書類不備)みたいな面倒くささを放置して結局突き返されるような簡単なことから、確認が不十分で仕事を二重に発注してしまっていたという、各所に頭を下げて回らないといけないレベルのものまでたくさんありました。そうです、つまりこの「たぶん大丈夫」という判断で自分の作業に対する責任を放棄してしまっています。

きみは新たな段階へ踏み出す際にその責任の段階も上がっていきます。大丈夫であるときちんと確認する、そのひと手間を惜しまず丁寧に問題の芽を潰すべきです。

全体を構成しているモノ/コトがわかるまで解像度を上げよう

丁寧にみているつもりだったのに問題が発生し続ける、そういう経験もありました。その多くは「ちょっと考えればできる」、「ちょっと想像したらわかるはず」というレベルで単純だったりします。でも作業している時にはその”ちょっと”というのが想像できていない、考えが至らないというある種致命的な問題を抱えていました。共通しているのは対応している事柄に対する解像度の低さ。作業単位の具体的な内容について触れると途端に雑なことしか理解できていないのがわかり、結果として大味な対応となっていた、というもの。なんとなく理解をし始めると陥りやすいなと感じていて、常に「それはこの事柄の最小構成のモノ/コトなのか」という心構えが必要だと感じました。あとこの”ちょっと”っていう言葉、言う方であっても聞く方であってもすごく周りを不快にさせるので「ちょっととは何か」をきちんと提示すべきです。

きみは自分自身がどんな人だと思いますか

その答えはどう見られていて欲しいかという願望

 人の所作を見たときに、自分はそれがきちんと出来ているのか今一度自省する必要がある。ということわざもある通り、自分の振りはなかなか自覚することが難しい。同様にきみはどんな人かというのを自分で答える時、その答えは必ずきみが周りからそのように見られて欲しいという願望が混ざります。たとえそれがマイナスな要素であったとしてもです。また、言霊という言葉で表すように、口から発されたことは自分を構成する性格の一つでもあります。さらに言えば、人の性格の一つに「自分は常に失敗をする人間だ」と強く思う人がいて、失敗をすると「やはり失敗した」と逆に安心してしまう人もいます。

 きみが人から思われたい(見られたい)と思う要素があるなら、意識して振りを見直していかなければなりません。

人は他人に興味がないけどきみはしっかり見られている

人は思うほど他人に興味がなく、交差点ですれ違った人のことなどではなく、さっき一緒にランチした友達であっても新しい靴はいてたの気づいた?みたいなくらいには変化に疎かったりします。でも、周囲がいつもそのような人や状態であるわけではありません。きみが午後の仕事(授業)中によだれを垂らしてうたた寝をしてるのも見られてるし、車の中で暴言を吐きまくって運転しているのも窓の隙間から聞こえてるし、壁に耳あり障子に目あり。そんなふとした瞬間、きみはしっかり見られています。その時こそが本当のきみだと思われるでしょう。言葉尻一つとっても粗暴な人柄だと思われるかもしれませんし、逆に慇懃無礼な人間だと煙たがられるかもしれません。

 きみを印象付けるしぐさはきみの意識していないところの方が重要だったりしますが、そういうところって自分ではなかなか気づくことが出来ませんよね。ですから積極的にきみは今日一日どのように振舞ったか、そのとき相手や周囲がどのような顔や反応をしていたか、思い出してください。「たぶん大丈夫」は通用しませんよ。

見られて欲しいように振る舞うことはネコを被ることではない

どんな人であっても、「(できれば)こう見られたい」という気持ちはあります。決してそれが高望みのものでなくてもです。そのように振舞うことは時に「ぶりっこ(死語)」とか「猫をかぶっている」と表現されることもあります。

それらはどちらも「自分だけの利益のために」という枕詞がつきます[要出典]。かわいくみられたくて、ぼくだけがちやほやしてほしくて、ぶりっ子を演じる。猫をかぶっていい人を演じることで自分だけに有益な状況を作り出したい、といったようにです。ここで見られて欲しいように振舞うこととは大きく違う点があります。きみが理想的な状態としてみているキャラクターはどうしてその言動をしていますか? きみはそれのどこに惹かれたのでしょうか? きっとそこには周囲との良好な関係であったり、快適な環境があるように感じたからではありませんか? つまり、自分だけが得をしようとすると失敗するのです。周りとの関係性や視点を持たない猫を被った状況とはそこが決定的に異なっている、そう考えています。

完璧超人の真似などという出来もしないことは考えないで

アニメキャラは人間臭さの出がらし

お茶っ葉でお茶飲んだり、コーヒーを粉から用意して飲む人にしかわからない出がらし。あれって、大半の人にはもう必要のないものだよね。それとアニメやゲーム、まんがのキャラクターがなにがつながるのかっていうところなんだけど、まずそもそもとしてアニメやまんが、ゲームなどのキャラクターにあこがれを持つ人はとても多くいると思うんだ。しかしながら、そのキャラクターのように振舞いたい、そう見られたいと思うのは非常に高いレベルの望みで、実現することはかなり難しいでしょう。ぼくはずいぶんと前から「キャラクターは人間の人間臭さを絞り出した後の出がらしだ」と思っています。メタ的なことも理由ですが、キャラクターは何日冒険していてもトイレに行かないし風呂に入ってなくても匂いには言及されないし、朝起きて一言目が疲れたなんて言いません。視聴者が求めてもいないので。逆にそのようなものが意図的に入れられることもありますが、そのような人間では当たり前ではある人間臭さの部分は基本的に一切描写しません。視聴者はそれをみたいとは全く思ってないので[要出典]。そういった人間臭さをストレスに感じており、そのストレス要因を排除したものを求めているのです。

 故にそれらを内包しているきみは、そもそもアニメやゲームのキャラクターのようにはなりえないのです。

きみの人生を構成する唯一の必須項目はきみ自身だ

きみに限らず、それぞれの人生を構成するのに必要なのは、その人自身だけです。もちろん、実際に生きる上では様々な人からの養育や協力が必要であったりしますが、それらはきみを主人公たらしめる一つの要素であって主人公ではありません。

死ぬまでは生きているので、どうしたってきみはきみの人生の主人公です。そうして歩んでいる人生の中において、急にその人間臭さの抜けたある意味完璧超人ののようなキャラクターの人生を送ろうとするということは、きみ自身の人生をそのキャラクターに歩かせようとしている、またきみが人生を放棄しているということじゃないかな。

理想状態を理解して、現実的な到達点への道程を導き出せ

しかるにそのようなキャラクターになりたいと思うこともごく自然ではあります。そのギャップに悩むこともおおいに人間臭いところですが。でも、そのキャラクターを理想の状態と位置づけ、現実としてどこまでなら到達できるか、その道程を導き出すことできみがなりたいものに近づくことが出来ます。

きみはこの世界の主人公でもアニメやゲームのキャラクターのようになれるわけでもありませんが、きみの人生という一つの劇場のオーナーであり、公開作品の唯一の主人公です。地上げ屋のごとく居場所を簒奪しようとする輩から劇場を守り、作品に泥を塗るような不逞から身を守らなければなりません。きみがそのステージでライトを浴び続けられるよう、不断の努力が必要なのです。

きみならできる。諦めなければ。

きみはぼくではないので、ここに書き連ねたほどできない人間ではないとも思っています。ここに書いてあることの大半も出来て当たり前と思っているかもしれません。素晴らしい! きみの次のステージは華々しく開幕するでしょう。逆に、そうだよねとおおいに理解をして頂けたきみもぼくではないので、きみなりのやり方で次の幕開けを切ることが出来ると信じています。

きみならできる。諦めなければ。

がんばって。

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