おことわり:推敲してないです。ここ読む前にこことか見ておくといいかも
今わたしは誰もいなくなった職場でひとり、この文章を書いている。
初めての自発的な夜越えの作業時間確保に乗り出したところだ。とはいってももうすでに3時間くらいを無駄に過ごしたところで、ドラえもんの映画も一本見終わってしまった。要は時間の使い方が絶望的にへたくそなのだ。何ならこの文章を書いてる時間で作業がもうちょっと進んでるだろう。
しかし、「何者にもなれなかった自分」に対して諦念を感じつつ、新天地へ向かっていくお話を目にして、何か書き連ねてみようかと同じようにキーボードをたたいているわけである。
ここから自分がいろいろと話すことを、三行でまとめるとこんな感じになるだろうからここだけ読んで帰ってもらってもいい。
- 「多分大丈夫」は「絶対に大丈夫じゃない」
- 諦めが絶望に変わるその前に、自分自身を救う義務がある
- 情熱と体力は万能薬である
- いかそうという気持ちさえあればやって無駄になることなんてない
- できないのはまだやってないから
三行以上ある? しらんな。
さて、自分の学生時代の後半、とくに大学時代は怠惰そのものであった。大学ではいわゆる代返(出席の偽装)をしたり、期末の考査当日に東西線に6時間揺られ続けて、試験をすっぽかしたりもした。親のすねをかじり倒して、大学に通っていたかわからないモラトリアム人間を満喫していたといってもいい。
当然そんなやる気のない学生生活をしていれば当然就職活動時期に困るわけで、いいところまで行った会社など数えるほどしかない、そんな何者にもなれなかったというより、何者になることも選ばなかった芯のない学生を取るようなところは当たり前だがどこにもなく、内定を取ることすらできずに卒業することとなった。自分のゼミで内定が取れなかったのは自分だけだった。
そんな自分でも一応高校からオタクっぽいことをしてて、同人誌を3冊くらい(装丁係ではあったが)出すくらい熱心ではあった。しかしそれを活かすこともできなかったので、大学の終わりにはすっかり活動の熱も冷めていくのを感じていた。
そうして大学生活があっけなく終わりをつげ、単なるプータローとなった自分に手を差し伸べてくれたのが、大学時代の外部講師でウェブサイトをメインに制作している小さな制作会社だった。小さい会社だったのでありがたいことにいろいろと任せてもらうこともあったが、いかんせん芯のない人間であったためかここで精神的に疲れてしまった。結局この会社を一年で辞めることとなる。
心療内科に行けばおそらく病名がつくことはわかっていた。それを認めればそこから甘えが生まれ、さらに怠惰になるだろう。そんな思いから診療所へ行くことを3か月ためらった。――つまるところそうなったが――その結果、自分には二十代の貴重な5年を失った。
物理的にその後死にかけた。
職業訓練校に通っていた2か月間、肺炎やインフルエンザに相次いで罹り、8割の出席率を保てず中途退校という扱いになってしまった。最後のとどめは出席率下限まで半日のところで急性腸炎になり、新宿駅の駅員室で横にさせてもらったところで終わった。逆にもうこれでどこにも行かなくてもいいんだなって思ったのも本音。
そうして何者かどころか本物のニートになった自分が行きついたのが自営業だった。やりたいことは特になかったが、父親のやりたいことに近い仕事をすることとなり、できもしない経理なんかも大慌てで勉強しつつやることとなった。
そんなとき、参考にさせてもらったのが前の職場で自分を呼んでくれた代表がやっていたやり方だった。そう、使う機会がなかっただけで「すでに自分は知っている」状態だったのだ。それは単純に幸運だったのか、みんなも一度は経験できることなのかはわからない。でも、活かせる機会が自分のところへめぐってきたのだ。
そんなこんなで4年弱、この仕事をさせてもらったが、残念なことに昨今の感染症のせいであおりを受けることとなり、モラトリアムの延長戦みたいな時間を終わらせる必要がある、そう考えるに至った。
さて、ここで問題が一つ二つたくさん。大学時代から結局何一つなせなかった人間が行く先などあるのだろうか? いやない。
そんなわけで半年くらいもはや転職ではなく第二新卒でもない就職活動をすることとなったわけだが、ここで役に立ってきたことがまだある。
趣味だ。
とあるジャンルにはまってから、長くとぎれとぎれだった趣味がきちんとした形で残るようになった。合同誌というものも何冊か出すに至り、そこから多くの友人も作ることができた。そこから得られた知識や情熱というものが幾度となく自分の精神的な不調を支えてきてくれたり、人間的な成長をさせてくれたりした。
そうして半年の就活を経て入ったのが、これまた小さな会社ではあるが、アニメ制作会社になる。
また入ってから思い出した。自分が小さなころに思い描いた仕事像。ドラえもんの声優、大山のぶ代さんと一緒に仕事がしてみたい。そんな叶いもしない憧れを抱いていたこと。そして、その夢自体は叶わないものとなったが、大山さんに続くみなさんと仕事ができること。
入る前から薄給激務であったことも知っていたので、入ってからやはり何年もつかわからないなと思っているところはあるが、今の時点で自分の名前が一つは残ることが決定しているので、何もなせなかったとはならないだろう。
でも、今後のキャリアプランとしてこの仕事はあと5年10年続けられるような仕事ではないこともはっきりしている。何者かにならなければ生き残れない状況はまだ続いているのだ。
ふらふらと話してきて、どこに話を持っていくかもわからなくなってきたが、ここからがまとめになると思う。
まず初めに、何者かになれるものはごく少数だということ。そして、社会はそうした何者でもない人間が占めて支えてそして腐らせていく。だからこそ何者かになっているものが輝いて見え、まぶしくもある。努力してもなれるものは少数だが、なったものはみな努力している。
でも、なれなかったからといって自分を腐らせる必要もない。自分の経験は”活かすつもりさえあれば”絶対に無駄にはならない。できないからやらない人が多い中、何者かになろうとあがいたならばそれはすでに人より先んじているものがある。それがどんなに小さなものであれ認めてあげてほしい。
ふたつめ。あなたがこれから一生付き合っていくものは技術でも愛する伴侶でもない。自分自身の身体だ。それが正しく動き続けるためには食べて寝て動くことしかない。これさえできればどんな状況であっても生き残ることができる。でも、もし一つだけ参考にしてもらえるなら、情熱や気力は体力から、体力は筋肉からくることを忘れないでほしい。筋肉はすべてを解決してくれないが、解決できることの多くに筋肉が関わっている。体をただの負債にしないでほしい。
みっつめ。人生には何回か諦念と絶望が襲う時期があるという。25,30、50歳とか、7とか8の倍数だとかなんかいろいろ聞いたことがあるが、まあそれは些末な問題なので端に置いておいて。諦念が生まれたとき、それが絶望まで行くとすぐそばには死という戻ることのできない場所ができる。絶望は死に至る病だ(という話はまだ読んだことがないのだが。)しかし、そこから自分自身を救うことができるのは、他でもない自分だけだ。共助や公助によってできるのはセーフティーネットを張ることだけで、そこから復帰するためには自分自身を救うという意思があるかだ。歯を食いしばって踏ん張るしかない。その必要がなぜあるかはまだ答えが出ていないが、いわゆる罪を犯す無敵の人はみなここで脱落し、死に至る淵から他者を巻き添えにしているように思えてならないのだ。どうか、諦念が生まれたときには自分自身をあきらめずに救ってほしい。
学校を出たら、後は死ぬまで基本的にイベントは起こらない。
自分自身が楽しく生きるために、ふとく長く人生を楽しむために、外に出ていろんなものを感じ取って行く時間を作ることを大切にしてほしい。
あなたならできる。成し遂げるつもりさえあれば。諦めさえしなければ。
がんばって。